越後縮(えちごちぢみ)

 小千谷縮に関する最も古い記録は、「績麻録」(せきまろく)という紀行文である。「績麻録」は、越後縮の起源を次のように伝えている。

 「寛文年中(1673-81)、播州明石の浪人、明石次郎が妻と二人の娘を連れて小千谷に来住し、栄活に困ったので、親子三人で故郷にいた頃織っていたち ぢみを織ったところが、延宝年間(1673-81)評判になり、近隣の婦女たちも習い覚えてこの地方に広まり、今は越後の特産品になった。

 播州明石は、昔から強撚糸で織った木綿の「明石本」の産地であるので、その技術を麻織物に応用したものと思われる。明石次郎の改良は、従来の平織ではなく、よこ糸に強い撚りをかけて織ることで、布地のクレープ(しぼ)ができ、さわやかな地風になったこと、絣や縞などの模様を織り出す技法を伝授したと云われている。

 
越後の国で生まれた織物で、生地が細かく縮むので、「越後縮」と名づけられ、更に技術的な改良が重ねられた結果、薩摩上布と並ぶ高級な高級な夏生地として武家や上流階級にもてはやされるようになった。

 
元禄時代になると、越後は藩の御用の指定をうけ、武士の裃や帷子などに広く使われるようになり、特に五月五日の端午の節句には、菖蒲帷子と称して越後を着て登城する習わしとなるなど、武家の制服になり需要を大きく伸ばすことになった。寛永八年(一六三一)には、わずか五千反(白布)内外の生産が、明和(一七六四〜七一)時代には四万反となり、最盛期の天明(一七八一〜八八)時代には二十万反の生産をあげるに至ったのである。

 
越後縮の生産の最盛期は、明和から天明期であったが、宝暦以降になると、武士階級の窮乏化がはげしくなったため、幕府がしばしば倹約令を出した。このことが越後にも大きな影響を与えた。

 特に、老中水野忠邦が断行した天保の改革の影響は大きく、天保13年(1843)には呉服全般にわたっれ価格統制が加えられ、当時江戸における越後 の標準小売価格が、金3分2朱から3分3朱だったのを、金2分2朱に値下げさせ、高級品の生産を禁止して下級品だけにさせたので、の生産は大きな打 撃を受けた。

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